「災後」の新たな物語に期待
(2017年9月28日)
河北新報社編集局長 今野俊宏
東日本大震災の被災地のど真ん中に本社を置く河北新報社は、「災後」という表現を意識して使っています。外部の方から「震」の字が抜けているという指摘を何度かいただきました。そのたびに、あの出来事から再び立ち上がることは「戦後」に匹敵する試みであり、その対語として「災後」という言葉を提起していると説明しています。
2万人近い人々の命と穏やかな日常の営みを一瞬にして奪ったあの広域・複合災害が、「戦後」と同じように、新たな価値感を生み出し、時代の転換点になってほしいとの思いが込められています。そうでなければ、犠牲になった人々の魂、家族や知人、住む場所を失った被災者の無念が報われないと思うからです。一方で、震災の風化は確実に進んでいます。
そんな折、「仙台短編文学賞」創設の構想が持ち上がりました。活字メディアの一端を担う新聞社として、「言葉の力」を信じ、仙台から新しい文学を生み出していくという趣旨は願ってもないものでした。社を挙げて協力し、主催者に加わることに迷いはありませんでした。
戦後間もない1946年(昭和21年)1月、河北新報社は戦後東北初の総合文芸誌「東北文学」を創刊しました。東北各地に疎開していた作家の力も借りながら新人の発掘と育成に取り組み、東北から新しい文学、文化を発信しようとの狙いです。月刊誌として1950年まで続きました。戦後の荒廃していた時代に、文芸復興をいち早く掲げた先達たちのチャレンジ。今回の「仙台短編文学賞」は、「災後」に生きる私たちにとって「東北文学」創設の志と通底しています。
ところで、仙台短編文学賞の募集ポスターをご覧いただいたでしょうか。メインで使われている写真は、河北新報社のカメラマンが昨年春に最大被災地のひとつ、宮城県南三陸町で撮影したひとこまです。昨年5月の「こどもの日」に掲載された被災地の写真特集「未来へ 笑顔の5歳」で大きく扱いしました。震災があった2011年春に被災地で誕生し、元気に成長する子どもたちがモチーフです。この写真はかさ上げ工事が進む町の中心部で、幼稚園に向かうきょうだいのとびっきりの笑顔をとらえた1枚です。
撮影した写真部員W君は震災時、南三陸町をエリアとする志津川支局に赴任していました。津波で支局を流されながら連日、署名記事と写真を現地から送ってきました。本社写真部に戻ってからも、「南三陸の復興を見届けることがライフワーク」と志津川に通い続けました。W君は昨年9月、43歳の若さで病気のため天国に旅立ちました。被災地の姿を記録し、後世に語り継ぎたいというW君の遺志をつないでいきたいと社員は銘じています。
河北新報社は今年1月、創刊120周年を機に、東日本大震災の痛手から立ち上がり、新たな時代を切り開く決意を込めて「東北の道しるべ」を発表しました。①「東北スタンダード」を掲げよう②「2枚目の名刺」を持とう③「自然と人間の通訳者」を育てよう④「共創産業」を興そう⑤「エネルギー自治」を確立しよう⑥「INAKA(いなか)を世界へ」広めよう-の6項目で構成。戦後日本に価値観の転換を迫った震災を踏まえ、次世代に引き継ぎたい東北像を提案しました。必ずしも成長を前提とせず、人々が安心して幸せに暮らす社会モデルを築こうと、ルポを中心に随時、紙面で展開しています。
文学という表現手段は違っても、「災後」の新たな物語が仙台から生まれそうな予感にワクワクしています。「東北感」に包まれた文芸の復興に大いに期待しています。